今回は素敵作品のご紹介ではありません。
最近、またもや活動が頻繁になってきた(もしくは目立ち始めた)反捕鯨活動に対する感想です。
考察といってもいいかもしれません。
非常に自己満足に近い形になるので、読み飛ばしてもまったく問題ありません。
ありません……が、これは読んで貰わなければ私が自己満足にまで至れないので、是非とも読んでいってもらいたいです。
巨大なものというのは、ただそれだけで敬意を表するに値する。
東京タワーを見たときの感動は今も覚えている。大仏を見たときも、富士山を見たときのことも覚えている。
「でかい」という、ただそれだけで、圧倒されてしまうあの感覚は忘れられない。
そしてそれは生物であっても同じ事だと思う。
私はクジラを見た事は無いけれど、見ればきっと、大きく眼を見開いて、凝視することだろう
容易に想像がついてしまう。
そして次の瞬間には、きっと、「反捕鯨活動」をしてしまうのも、分からんではないなあ、と思うだろう。
もちろん、彼らが反捕鯨活動をする理由が、私の思い至る理由だけのはずが無いという事は分かっているが。
日本人は、彼らの活動を見てすぐ馬鹿にする。
「何を言っているんだ」「牛とか豚なら良くて、鯨は駄目なのか」「クジラの数は年々増えてきているから大丈夫なんだよ」「こいつらは金儲けが目的なんだ」
などなど、多種多様な言葉を弄し、彼らを侮辱する。
だけど、それは少々筋違いなんじゃないだろうか。
牛とか豚は良くて、鯨は駄目なのかという問いには、「まさにその通りだよ」としか答えようがないのではないか?
どこからどう見ても、その通りだろう。
彼らは鯨の保護しか訴えていないんだから、そうとしか考えられない。
それをわざわざ告発したところで、何にもならないじゃないか。
しかも、それは我々と同じであるとも、言えるのではないか?
我々日本人だって、世界各国では食べられていても、食べようとしないものはありふれている。
もちろんその逆だって、ありふれている。
梅干や納豆なんてその代表格だろう。
クジラと違い、咎められていないだけで、世界では受け入れて貰い辛いものだ。
イスラム教の人に、豚は食べないのに他のものは食べるのか? と尋ねることや、ヒンドゥー教の人に牛は食べないのに他のものは食べるのか? と言うのと、ほとんど同じことだ。
次に、クジラの数は年々増えているから大丈夫、という声。
まあ確かに、絶滅する心配は無いだろう。
だが、それとこれとはまた別問題ではないか。
クジラという種を本当に愛しているのであれば、数のことなんか問題にならない。
なにがあっても殺させてなるものかと思っている相手に、そんな数の問題を押し付けたところで一体何になろう。
極端に言ってしまえば、その反捕鯨活動家の母を殺し、その直後に「まだ親父が残っているんだからいいだろう」と言うようなもんじゃないか。
本当に大切なものというのは、数なんかで推し量れるようなものでは無い。
最後に、「金儲け」と糾弾する人々。
それは、確かに的を得ているのかもしれない。
詳しいことは分からないが、捕鯨に反対すればするほど「儲かる」グループは実際にあるらしい。
だが、それは背後にいるほんの一握りの人だけだろう。
実際に活動をしている人たちは、真にクジラを思って活動をしている人々ばかりなんだと、私は思っている。
これに関しては私の独断と偏見なので何とも言いようがないのだが、きっとそんなところだろう。
さて、ここまで反捕鯨活動を肯定するような書き込みを繰り返したわけだが、別段私が反捕鯨家だからというわけじゃない。
ただきちんと考えてほしかっただけです。
否定することはとても簡単だ。
「何を馬鹿な」と一蹴することは、とても簡単なことだ。
だけど、相手が本気で活動をしているのであれば、少しぐらい真剣に耳を傾けてみてもいいではないか。
これは何も捕鯨問題に限ったことではない。
戦争に関してもそうだろう。
私だって戦争はしたくないが、何も考えずに、ただ自分が戦争をしたくないからという理由だけで反対をするのは、どうにも利己的な気がしてならない。どうせ反対をするのならば、その背景というものをもっと知っておいてもいいのでは無いか。
閑話休題。
次は、反捕鯨活動家の方に話をシフトさせようかと思う。
彼らのクジラに対する異常なまで執着心は敬意を表するに値するが、少々行き過ぎの感が否めない。
つい先日行われたこの事件なんか、まさにその典型だ。
こんものを見せ付けられては、本当に彼らがクジラを保護する気があるのかどうかさえ疑わざるを得なくなる。
ただ派手なことをしたいだけなんじゃないのかとさえ、思われる。
しかしこれが本当にクジラの為になる、これがいずれはクジラ保護の役に立つと考えているのであれば、もう病状の進んでしまった末期癌のような状態だろう。
本当にクジラを思って行動するのであれば、もっと思慮深く行って然るべきだ。
こんな活動をしていては、悪印象しか与えないだろう。
ただでさえ、日本ではヒールとして認知されているのだから、もっとクジラを救うための最短ルートを模索し、活動していかなければいけないのではないのか?
とは言え、反捕鯨組織も一枚岩では無いのだろうから、思慮の浅い若者が先走った行動と考える方が自然な訳だけれど。
さて、次は反捕鯨をする理由について見てみたいと思う。
・絶滅のおそれがある。
・殺し方が残虐。
・知性
・可愛い、大きい
・動物を殺すべきでは無い
……。
いや、これは、もう、なんというんでしょうね。
正直、突っ込みどころが満載すぎてどこから突っ込めば分からないという、レアな体験を現在進行形で体験中なわけですが……、とりあえず、絶滅の恐れはまず無いらしいですよ。
それが本当なのかどうかは分かりませんが、まあ、反捕鯨の人たちがクジラを救いたいと信じている事と同じぐらいには信用しています。この世の中は信用で成り立っているわけですからね、まず信じるところから始めないことには、何も始まらないことですし。
殺し方が残虐……というのは、えーと、つまり、スマートに殺せば別にいいってことなんでしょうか……。
知性っていうのは……賢い動物は殺しちゃ駄目ってことでしょうか。えええ、えーと。なんちゅうか、短絡的すぎやしないでしょうか。第一その賢いかどうかっ ていうのも、あやふやなものでしょう。でもまあ、事実賢かったと仮定したところで、それがどうしたって話ですよ。それを盾に捕鯨に反対するというのなら ば、断固として捕鯨反対の反対の立場を崩すことは有り得ませんね。
賢いから生かし、賢くないないやつは容赦なく食らうという変に割り切った精神は嫌いです。
可愛い、大きい。
これがまだ一番共感出来る。大きくて可愛いから殺したくない、いいじゃないか。
誰だって可愛いものを殺すのは忍びない。その中で特にクジラが可愛くて可愛くて仕方が無い!って言うのならば、分かる。凄く良く分かる話だ。ちょっとお馬鹿な感じが抜けないが、一番共感しやすい。
でも、「好きだから」という理由が出てないことに驚いた。
反捕鯨という単語を見て、何故反対するのだろうか? と考えてみれば、真っ先に出てくるのがそれだと思うのだが、まったくもってよく分からない。
確かにそれを根拠に討論をすることは出来ないだろうが、こういった活動にはそういった感情、熱意は必要不可欠だろう。それが主な理由にも取り上げられないってのは、いかがなものか。
これでは上で取り上げた反捕鯨家と殺人犯の極論ストーリーも成り立たなくなってしまう。
あれは「愛」やら「好き」といった感情抜きでは、どうしたって成り立ちようが無いのだから。
最後の、動物を殺すべきではないに至っては……、これはもう、何もいう事はありません。
言ったところで、こんな理由を提唱してクジラを救おうとする人にはきっと通じませんしね。
いくらなんでも、これを理由にクジラは救えない。いや、クジラ「のみ」は救えない、といったところでしょうか。
その理由を持ち出すのならば、全ての動物を保護するべきだろう、と、誰もが思うことでしょう。
……何も言う事は無いと言いつつ、結局言ってしまいましたが、気にせずに次にいきましょう。
総合的に見てみれば、やはり、お互いの相互理解が絶対的に出来ていない。
どちらも自分側の事しか考えておらず、実に自己中心的だ。
いかに自分の要望を相手に呑ませようかと、それだけしか考えていない。
もっとお互いのことを知るべきだ。
簡単に否定するのではなく、もう少し頭を使ってみてほしい。
私は真実であるかどうかが問題なのではなく、納得出来るかどうかが問題だと思っている。
何も考えずに否定するのは、納得では無く、これまでの解答に対する依存だろう。
いつの間にか出来上がっていた世論の流れに乗っているだけとも言える。
結論は千差万別で構わない。
だから、もう少しお互いの言い分を認めた後で、答えを出して欲しいだけだ。
私が思うに。
Re:私が思うに。
東方。
Re:東方。
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